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「津波の木」に寄せて清水チナツ(インディペンデント・キュレーター/PUMPQUAKES)

2016年、わたしは「畠山直哉 写真展 まっぷたつの風景」に取り組んでいた。会場前半部分には畠山の初期から現在まで約30年にわたり制作された作品群を展示し、会場後半部分には、テーブルに2011年から2016年まで畠山が撮りつづけてきた故郷・陸前高田の4400カット、552枚のコンタクトシートを展示することになっていた。あの日からの畠山の足取りを「一本の道」として、ある「時間の塊」として見せることにこだわり、結果としてテーブルは36メートルの長大なものにもなった。テーブルを会場に設え、コンタクトシートを並べ、照明をあてた。そのとき、わたしは背筋がひやりとするのを感じた。テーブルの下、私の足元に、一本の長い影がスーッと立ち現れたからだ。それは、畠山が「もし撮らなかったら」というもう一つの可能性が枝分かれてそこにあったことを思い知らせるに十分で、まるで「忘却」の淵に立っているかのようだった。

 

あの大津波のことを、こんなふうに短く書いてしまうと、書きながら腹立たしくなる。あの出来事を十全に説明するには、普通ではない数の言葉と、普通ではない長い時間が、本当は必要になることがわかっているからだ。このような自分の声とて、似たような思いをした、あるいはもっとたいへんな思いをしている、百万人の声の内のひとつに過ぎず、しかもその声というものは、いわゆる人生と同じで、どれひとつとして同じものがない。そしてその向こうには、突然に声を奪われた二万人の魂がある。それらすべてを、まとめてひとつの出来事として語り、また受けとめるということが、いったいどんな人間に可能だというのだろう。いっそ口をつぐみ、耳を塞いだ方が、ましというものではないか。

(『まっぷたつの風景』畠山直哉「せんだい・メディアテーク・アトモスフェール」pp.111-112

 

変わり果てた故郷に立ち、その風景に対峙し、シャッターを切るとき、どれほどの葛藤があっただろう。コンタクトシートには、あの日からの逡巡と、それでもなお撮ることを手放さなかった畠山の足取りがありありと残されており、それが奇蹟のようにも感じた。なぜなら、あの時期、私たちはある「怠さ」のなかにあったからだ。会期中におこなった対話の場に参加した女性は、当時の空気をこのように語っていた。

自然の猛威によって、これまで私たちが頼ってきた価値観が崩れ去り、たしかな拠り所を失ったことを機に、私はある種の〈怠さ〉の中を生きているような気がします。震災後しばらく、私は避難所にいました。不謹慎かもしれないですが、その避難所にいたときが私にとって一番幸せだったように思うのです。なぜなら、そこでは、みんなが同じ状況(条件)の中に置かれ、何の疑問も抱くことなく、毎日食べて寝て、ただ生きていさえすればそれでよかったのですから。そして、本当に私が〈怠く〉なったのは、その避難所を出てからなんです。ふたたびこの社会にぽんと放り出されたとき、あらためて、自分がこれからまた何のために生きていくのか、そして、どう生きていく(べきな)のか、などといった面倒な〈意味〉を問い始めた頃からなんです。

(前掲書 西村高宏「おお、聖なる単純よ!畠山直哉 写真展 まっぷたつの風景」と「てつがくカフェ」pp.105-106

 

霧のように辺りを覆う、怠さ。あの大きな出来事から5年の空気は、たしかにそのように形容され得るものだった。そのとき、会場の最後尾から姿をあらわした畠山は、「すこしでも明日を感じさせるものがあるだけで充分」と語りかけた。それは目の前の状況に過剰な意味を求めすぎるものでも、怠さに身を任せた諦念でもなく、「明日」という不安定なところに自分を開いておくことの大切さを訴えて胸に響いた。そして、震災後ままならない日々を過ごしてきた人たちへの〈労い〉を感じさせる言葉でもあった。

 

「まっぷたつの風景」で問われた、「ただ生きる」から「どう生きるか」。しかし、その問いは、その後の年月で「心の復興」の叫びへと一部姿を変え、私たちの言動に慎重さを求めるようになった。あらかじめ不快の芽を取り除こうとする不断の努力。倫理観でキリキリと捩じ上げられ、こわばる身体、閉塞してゆく社会。

そんな折、畠山が次に着手したのが「津波の木」のシリーズだった。畠山は、本シリーズのきっかけとなる一本のオニグルミの木を見つけたとき、「ラ・ヴィ・コンティニュ(La vie continue)=生きていることは続く」という言葉がふいに現れたと言う。「これまで」を傷として刻みながらも、「いま」を生きる姿は、心の方角をすこしだけ「明日」へと向けてくれる。そんな木が一本、また一本と東北の沿岸にひっそりと立っていたのである。ひとつの躰にカタストロフの爪痕を残しながら、「死」と「生」が分かちがたく共に在る。それは息を呑むような神話的な風景であるのに、扇情的でなく、どこか優しい。この優しさはどこからくるのか。

 

「津波の木」を畠山が撮り始めた2018年頃、私は何度か撮影に同行させてもらったことがある。一本の木の前に佇み、光や風、葉の揺れなどを見ながら、冠布に潜り息を鎮めて一度だけシャッターを切る。同じ木を、日にちを変え、また一度だけ。それは、用いる4×5カメラの特性やフィルムが希少になっているという事情を超え、ひとりの人間が、なにかに向けて自分の生を捧げるような時間だった。そのことは、次のような畠山の言葉からも感じられる。

 

早く陸前高田に行きたいなあ、と思う。どの場所でもよい、陸前高田の地面に立って、土でも水でもなんでもよいのだ、なにかをこの目で捉えることができるなら、それだけで僕は満足するはずだ。目の前の風景が哀しかったり辛かったり、思いがけなく自分の記憶の扉を開いたりするものだったとしても、陸前高田のなにかが見えているというそのことに対して、僕は感謝にも似た、深い満足を覚えるに違いないのだ。僕の写真はこの十年の間、その満足の瞬間を記念するようにして、シャッターが切られていたものだったと、いまでは思う。そんな行動が倫理的にどうだったかの話は措いておき、それらの写真がいつの日にか、誰かにとっての申し出や提案に姿を変えることを、僕は心の底から願っている。

(初出『新潮』20214月号 畠山直哉 随想「心の陸前高田」、再掲『見えているパチリ!』畠山直哉+大竹昭子)

 

「津波の木」を巡る旅は、カタストロフを巡る旅だ。故郷・陸前高田に限らず、畠山はこの十数年、カメラを携え、津波の痕を歩き続けた。それは忘却に抗うひとつの方法だったかもしれないし、あらかじめ不快を取り除こうとするゆえに閉じていく明日を、こじ開けることだったかもしれない。到来する明日がどんな一日になるのか、そのことは誰にもわからない。しかし、それでも明日へ向かおうとすることは、生きることをやめないことだ。振り返ると、畠山の「津波の木」の撮影は、生命と人生(La vie =生きていること)そのことに、立ち会っているような時間だったと言える。そのようにして撮影された畠山の写真を前にしたとき、言葉はスピードを失う。そして心身が、ゆっくりほぐれてゆくのに気づくのだ。それは、消えることのない哀しみとともにあってでさえ、なお。

 

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